体験記
色色な人人
ペンネーム: 河邑
「色弱と仰っていましたが、これまで色々とつらい経験をされてきたかと思います。それらをどのように乗り越えてきましたか?」
これは先日、私がとある場面で受けた質問です。
私は生まれつき色の見え方が大多数の人とは違って見える、いわゆる「色弱」です。近年では、この「弱」や「色覚異常」という言葉から、どうもネガティヴな印象を与えてしまうのではないか、ということで「色覚多様性」や「色覚特性」とも呼ばれています。ここでは、私がなんか好きだからという理由で「色覚特性」と呼ばせていただきます。
色覚特性は、男性の20人に1人、女性は500人に1人の割合、つまり日本全国では300万人以上の当事者がいるということになります。(『色弱の子を持つすべての人へ』、栗田正樹、北海道新聞社出版)
そして色覚特性にも「C・P・D・T・A」と、色色なタイプがあります。一般的な見え方をしている人は「C型」。このC型に比べて赤を感じにくい人が「P型」。緑を感じにくい人が「D型」。青を感じにくい人が「T型」。最後「A型」は色を明暗(モノクロ)で感じる人を指します。
さらに、このP・D・Tの中にも「強度/弱度」といった見え方の度合いによる分類がされていて、私は緑を少し感じにくい「D型弱度」と分類されます(世界で、いわゆる色弱と呼ばれている人たちのほとんどは、この「P型」「D型」であるとされています)。
少し専門的な話をしましたが、個人的には、一般的な見え方をしている人に対して「正常者」や「健常者」という分類ではなく、「C型」と分類したことが重要に思えます。
これまでは、健常者が感じ取れる色を、色覚特性の人は感じ取れない、故に劣っているという考え方が一般的であったかもしれませんが、実は色覚特性だからこそ感じ取りやすい色、そしてC型(一般的な見え方)だからこそ感じ取りにくい色もあるのです(例えば紺と黒の見分けはP型D型の人たちが比較的得意であるとされているなど)。
この色が得意だから色覚特性のほうが優れているんだぞ!と言いたいわけではありません。そういった優劣ではなく、C型にはC型の見え方が、D型にはD型の見え方が、さらに言えば、これら分類もわかりやすく認識するための方法であって、実際には人間一人一人、異なった世界の見え方をしているはずだというのが持論です。
色が違って見えると言っても、私からしてみれば、生まれた時から見えている世界であり、一つの個性だと考えています。ですから上記の質問をされたときは正直驚きました。もちろん質問した側に悪意はなく、むしろ善意から生まれた質問でしょう。しかし実際のところ、これまでの人生で「つらい経験」と称するほどに悲惨な出来事はありません。
ただ黄緑と黄色や、緑と茶色、灰色と淡い緑などの区別があまりできないため、ふとした瞬間に誰かに指摘されることでようやく気づく場面は多々あります。現に小学生の頃、お絵描きをしていた時に、肌の色を黄緑色で塗っていたことから、色覚特性かもしれないと母が気づいたことがきっかけでした。私同様、兄も色覚特性を持っていて、夏休みにゴーヤのお絵描きをしていたら、真緑のゴーヤを茶色に塗っていたことから発覚したそうです。色覚特性は遺伝的であるため、兄と私の見え方はほとんど同じです。ですからゴーヤのそれも、すごく共感できます。
この色覚特性が発覚した際に偉かった(上からかもしれませんが)のは、母の行動に思えます。母は動揺したり、悲観したり、ましてや謝ったりはせず、ただ私たちの個性として捉えてくれました。家の本棚にあった色弱に関する本のおかげで、私自身、自分の世界について多少なりとも知識を培うことができました。
しかし、学校のクラスメイトや、先生には「なんでその色で塗っているの?」と聞かれることが多々あり、私の場合は「カワイイから」や「この方がよくない?」という、色覚特性と一緒に持って生まれた超ポジティブ思考によって、それらの質問を自然と跳ね除けることができましたが、自分が塗りたい色を塗っているだけなのに、それに対して何かを言ってくる人が周りにいることは、子どもが「自分は間違っている」や「お絵描きは嫌い」という考えを持つ原因になってしまいます。子どもが大地を黄色や赤色、太陽を黒く塗ることは色覚特性関係なく、感性豊かな時期にはよくあることではないでしょうか。
私の大好きな『美術館と大学と市民がつくるソーシャルデザインプロジェクト』(青幻舎出版)という本に登場する、東悦子さんという方のある一節を、少し長いですが紹介します。
「子供の絵は、大人から見てヘンテコリンでも、そういう見え方もあるんだと教えてくれる。お母さんの中には、子供が緑に色を塗ろうとしているところを、横から『ここは赤でしょう』なんて言って、正そうとする方もいます。でも私はあえてそこを『ピカソみたいだね』と言う。そうするとお母さんの方が『それでもいいのかな』と、自由に描かせるようになったりする。自信を持たせると、子供は絵を描くことが好きになります」(中略)
「例えば子供が太陽を青く塗った時に、認めてくれる大人は少ないかもしれません。でも、まずはそこに寄り添い、青く塗ったことを肯定してあげる」(東さん)
実は、東さんの息子さんは、幼稚園の頃、絵を描くと最後に真っ黒に塗りつぶしてしまうことがあった。理由を聞くと「このお話は夜になったから」と言う。「心に闇がある」などと指摘する人すらもいて、悩んでいた時期があった。
「息子は、それをいいねと自信を持たせてくれた先生がいたので、絵だけでなく考え方も自由のままでいられました。その後は様々な表現に興味を持つようになって、今は藝大で学んでいます」(六二〜六三頁)
最高ですよね。好きなんです。このように色覚特性関係なく、ましてや子ども大人関係なく、マジョリティ的なる視点だけで世界を認識しようとすると、その視点の外にいる人は取り残されるか、あるいは、無理にでもマジョリティ側に適応することが求められてしまいます。そうならないために必要なことが、先ほどあげた「想像力(イマジネーション)」ではないでしょうか。自分の見える世界だけが本当だと思い込むのではなく、「自分はこうである」と思う時に、一度立ち止まって考えてみる。
例えば、赤色と緑色じゃ見えにくいかもしれないから、黄色と青色にしてみたり、色を識別できない人のために「黄色」や「青色」と文字も書いて見たり、目の見えない人のために音声で案内してみたり、車椅子の人も来られるようにエレベーターを設置しようとかとか。
他にもいろんなことが考えられますが、大事なのはそれらユニバーサルデザインがなぜ必要なのかを「みんなが想像し、理解しようとする」ということです。街中がシステム上はバリアフリーであったとしても、みんながなんでエレベーターがあるのか、点字ブロックがあるのか、カラーユニバーサルデザインの普及が必要なのか、それらについて簡単でいいから、社会全体に基礎知識として知られている。そうすることで、車椅子の人が待っているのに、乗らなくていい人が先にエレベーターに乗ったり、黒板に色覚特性の人が見えづらい赤色を使ったり、行列が点字ブロックの上にならんだりすることも徐々に減っていくように思います。
話が若干ずれたかもしれませんが、ここで言いたいことは一貫して「みんながみんな同じ見え方ではないはず」という想像力が重要であり、その想像力が社会全体に行き渡れば、“異常”は異常ではなくなり、“障がい”は障がいではなくなる。どんな身体であっても精神であっても、不自由を極限まで減らして生きていける社会になるのではないでしょうか。
私のようにキャラクターの肌を黄緑色で塗っている子どもがいたら、かろやかに「いいね!」と伝えてみてはいかがでしょうか。