体験記
自分を信じて生きる~インディアンの生き方に出会って
ペンネーム: 野中 常雄
突然、1 億円を超える借金を抱えることになりました。20年ほど前の33歳の時でした。 が、金額がとてつもなく大きいせいか、あまり現実味を感じず、どこか他人事のような気が していたように思います。
父が急病で危篤となり、高山の母からすぐ帰省するよう連絡がありました。当時の私は東 京で働いておりました。急いで帰ると、まだ父の意識はあり、数日は命がもちました。容態 が悪く、苦しそうな様子が切なくてなりませんでしたが、医師から「長男さん、来てくださ い」と呼ばれると、自分の崩れた顔がみるみると変わり、おのずと引き締まっていくのを感 じました。悲嘆にくれるばかりの母や姉弟らを前にして、身内を支えたい一心で、自分の悲 しみが吹き飛んだのです。そうして、父が息を引き取り、すぐ葬儀の段取りとなりますが、 悲しみをまったく超越し、わりと平然としていました。
葬儀を終え、ひと段落もつかのま。父母の営んでいた商売の状況を確認したところ、なん と1憶円超の借金を知ったのです。当時の金利は高く、1憶円の借金は1日およそ1万円の 利息がかかる時代。衣類等を扱う小さな小売業には、とても大変な金額でした。どんどん返 済期日が迫ってきます。自分の中で押し殺した悲しみに向き合う時間もなく、借金をいかに 返していくか、日々格闘することになりました。そのために、東京の勤め先を退職し、高山 へ戻ってきました。とにかく商売をまわし、お金をつくり、借金を返す、延々とこの繰り返 し。泥をかぶって、滞った売掛金の回収にも足を運びました。今さら何だ、と怒鳴られたり、 何度もすっぽかされたり。約束の日に訪ねたら、夜逃げをしてモヌケの殻となっていたり。 悪質な例では裁判所に訴えて決着をはかったこともありました。
前の勤め先から在宅の仕事を受け、眠い目をこすりながら、「家業」と「副業」の両立に 励みました。さらにもう一つ、「学業」という柱を立て、資格試験の勉強を新たに始めまし た。それは、未来へ希望をつなぐものでもありました。質素倹約し、爪に火をともすような 生活でありながらも、なぜか悲壮感はなく、さほど不自由も感じることなく、毎日を暮らし ていました。が、ふとしたことで、悔しくてたまらず、急に自分がみじめに思えて、人知れ ず涙を流した時もありました。
苦節を重ねたすえ、奮闘の甲斐あり、また身内や周囲にも助けられ、借金は少しずつ減っ ていき、ついに完済する日が来ました。が、やがて社会情勢はどんどん厳しくなり、同業者 も廃業が続き、うちのような小さな小売業はジリ貧となってきました。もう少し対処が遅れ たら、返済はもっと苦慮したかもしれません。なんとか間に合ったというのが実感です。
■自分のありのままの気持ちを見つめる
借金を知り、じっと数字を見ながら、ふと「なんとかなりそうや」と、根拠はありません
が、楽観的に思えました。悲嘆することなく、不思議と落ち着いていました。ジタバタして も仕方のないこと。手探りでしたが、一つ一つ目の前のできることから取りかかるしかなか ったのです。
完済までには、山あり谷あり、紆余曲折の数々。他界した父に文句や非難をぶつけるわけ にもいかず、やり場のない気持ちがくすぶり続けました。そのような中、どのようにして自 分を保てたのか。
一つには、わりと冷静に事態を客観視できていたように思います。たとえ、どんなに苦難 があっても、人は必ず乗り越えていける、そう信じます。それから、身内や周囲との支え合 う関係があったことも大きかった気がします。その意味で、いつどんな時も感謝の気持ちを 決して忘れてはならないと、身を持って感じます。
そして、根底から自分が最も支えられたものは、ワークショップ等を通して触れたネイテ ィブアメリカン、いわゆるインディアン(アメリカ先住民)の考え方や生き方でした。20 代からルポルタージュをよく読み、反戦・平和・人権・環境・マイノリティなど社会的な問 題について関心を広げる中で、侵略によって抑圧されてきたアメリカ先住民の歴史を知り、 またその自然観や人間観に学ぶものが多くあると気づき、たえず興味を持っていました。
帰郷してから半年余りが過ぎた頃、高山でネイティブアメリカンに関する講演とワーク ショップがありました。地域づくりの担い手を育成するような連続講座の一環でした。講師 は神戸の松木正(ただし)さんという方で、マザーアース・エデュケーションという団体を 主宰し、関西をはじめ、全国各地でネイティブアメリカンの体験活動、企業や学校での研修 等を展開していました。実際にアメリカでラコタ族という先住民と生活や儀式を共にし、そ の伝承を許可された方です。インディアンの歴史や伝統、考え方や生き方、自然観や人間観、 ラコタ族と体験した儀式など、お話はすごく興味深く、おもしろかった。20年を経た今も よく覚えています。ちょっとしたワークショップもありました。円陣になって、気持ちや言 葉をボールに見立て、投げ合うものでしたが、コミュニケーションや人間関係にとても大切 な要素が詰まったワークで、心の深いところへジーンと響くものがありました。常に「いま」 「ここ」を大事にし、自分のありのままの気持ちを見つめる、それがとても新鮮で、生涯忘 れえない貴重な時間を過ごすことができました。
そうしたらなんと、講師の松木さんをお呼びして、ラコタ族の儀式体験を高山でもやって みよう、という機運が盛り上がり、実際あっという間に3回の予定が決まりました。場所も 秋神(高山の中心市街地から南西へ車で40分ほどの山間地)の森で即決。ずっと関心を抱 いていたアメリカ先住民の世界へ本格的に触れてみることができる、と心が躍りました。
儀式体験は「スウェットロッジセレモニー」というもので、直訳すれば「汗の小屋の儀式」。 ラコタ語では「イニィピー」と言い、子宮回帰、つまり生まれかわりの儀式とされています。 柳の木を骨組みにしてドームを作り、上から毛布を厚くかけて、真っ暗な空間を作ります。 もともとは、バッファローの骨や皮でできていたそうです。ドームの外で夜通し焚き火をし て、焼け石をいくつも作り、それをドームの中央にあるくぼみへ運び込みます。焼け石に水
をかけ蒸気を発生させて、いわば高温のサウナ状態にします。その中で、祈りをささげ、ヒ ーリングソングを唄い、一人一人が順番に自分の想いを語る。周囲はとことん傾聴し、共感 を示します。汗や涙、言葉や気持ち、感情や心が解き放たれます。朝が明ける頃、一通りの 儀式が終わり、赤ちゃんのようにハイハイするかっこうでドームから出ます。生まれかわり の瞬間です。目に見えて何かが変わったわけではありませんが、憂慮が少しだけ軽くなった ような、不思議な心地よさを感じたものです。
ドームの中で自分の順番が来た時、借金のことを話しました。温かく受けとめられた感覚 に包まれ、子宮に抱かれているような安心感がありました。暗闇がやさしく感じられました。 儀式体験の前にはいくつかワークショップを行ない、ラコタ族の唄を練習しながら、参加者 どうし食事も共にし、互いに打ち解けていきます。自分の気持ち、相手の気持ちを大切にす る感覚を育んでいきます。また儀式の後は食事と仮眠をとり、最後にクロージングがあり、 経験したことや、「いま」「ここ」にある想い等を分かち合います。こうして、深く、濃く、 厚い時間を終えていきます。
その年に3回、そして翌年以降も、この儀式体験を継続して行ないました。マザーアース・ エデュケーションのある神戸へも行き、ワークショップに参加したり、借金を完済した少し 後の年には、松木さんらと一緒にアメリカのラコタ族の土地を訪ね、ネイティブアメリカン の世界に直接ふれる機会にも恵まれました。また、高山でいくつかのワークショップや体験 活動を主催しました。
■自分を信じて生きる
ボタン一つでなんでも操作できてしまう現代、ややもすると、人は謙虚な生き方を忘れて しまうのではないかと恐れます。自然に対しても、社会に対しても、相手様に対しても、な んでも思い通りにコントロールできてしまうという思い上がりの錯覚は、とても危険なこ とかもしれません。
人間は自然の中の一部であること、自然は恵みも災いももたらす矛盾した存在であるこ と、大いなる大地の中で人間は無力であること。ネイティブアメリカンの生き方、考え方に は今もこの感覚が息づいていると、ワークショップや儀式体験を通して知りました。ゆえに、 思い通りにならないことを謙虚に受け入れます。目的を果たすことに執着もしません。矛盾 や葛藤に折り合いをつけながらも、自分への信頼を失うことがありません。
生きるとは、思い通りにならないことの連続のように思います。ならば、成功や自己実現 を手放したほうが、もっとシンプルに、かつラクになれそうな気もします。自分はもうすっ かり、成功することや自己実現を果たすことに価値を見出さなくなりました。では、何に価 値を置くかと問われたら、他者の痛みを知ることにこそ、と答えます。功成り名遂げるより も、他者の痛みを知り、寄り添うことができたなら、その人生は上等、上出来である、とい うことです。うまくいかなくても、思い通りにならなくても、そう苦になりません。自分へ の信頼は崩れない。そんなふうに生きられたら良いなあと思うものです。