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体験記

コンプレックスについて

ペンネーム: 神谷竜一

 

 

「自分とは何か?」ということに思いを巡らせるとき、いつもすぐに私の頭に思い浮かんでくるのは、〈コンプレックス〉にともなう思い出である。


〈コンプレックス〉とは、いま手元にある辞書を見てみると・・・。
「① 精神分析用語。情緒的に強く色付けされた表象の複合と定義され、抑圧されながら無意識のうちに存在し、現実の行動に影響力をもつ。


 ②《「インフォリオリティーコンプレックス」の略》劣等感。「ーのかたまり」・・・」というふうに記載されてある。


 ① については、わかるような、わからないような・・・。ぱっと読んで、意味をぱっと掴める人というのはそんなに居ないのではないだろうか?


 ・・・それでも、私なりになんとか意味をわかろうとしてみると、日常用語としてではなく精神分析の用語として用いられていて、それは自分の情緒に強くインパクトを与えてくる複雑な事柄で、それは知らないうちに心の中に負の意味合い帯びて存在して、日々の生活の中にも、その負の意味合いによって行動に影響力をもつもの・・・みたいな、こんな感じだろうか?でも、いまこの自分なりの解釈を読み返してみても???何のことやら???みたいな感じで何が何だかわからない感じになってしまう・・・汗。


 でも②にあるように(「インフォリオリティーコンプレックス」というカタカナ言葉はよくわからないので、それはともかくとして)〈コンプレックス〉=〈劣等感〉と捉えるとコンプレックスという言葉の意味が、私には、すとん、と腑に落ちる感じがする。


 ・・・というわけで、私は〈コンプレックス〉とは「劣等感」という意味として捉えると言葉の意味がわかりやすくなるのではないか?と思うが、この〈コンプレックス〉或いは〈劣等感〉というものに、私が今まで生きて来た中で大きな影響を受けている、と、「自分とは何か?」と考えるとき、いつも思ってしまうのである。


 では、何故この〈コンプレックス〉=〈劣等感〉(以下、コンプレックスとして統一して表記します)が「自分とは何か?」ということを考えるときにいつも頭の中に浮かんで来るのか?というと、〈コンプレックス〉を感じてしまったときの、茫然とした気分、胸を圧迫されるような気分、目の前が真っ暗になってしまうような気分、または何かわからないような得体の知れないような気分、もっと言ってしまえば、この世の中の生きづらさ、生き難さ、みたいな重たい気分が心の中に湧き上がってくるような感覚?感情?に否応もなく「自分」という存在を意識せずにはいられないような、そんな切羽詰まったような気持ちに陥ることが私には多い、と思えるからである。


 例えば、小学生の頃私はプールでの水泳の授業がとても嫌いだった。なぜなら、私は泳げなかったからである。泳げなかったから、プールのあの独特な塩素?の匂いがたまらなく嫌だったし、水泳着に着替えて廊下からプールに向かうとき、身が固まってしまうような感覚になることもしばしばあった。

 また、同じように小学生のとき私は、泳げなかったことともに、鉄棒が苦手で、逆上がりがまったく出来なかった。いま思い出しても、クラスの他の皆が、鉄棒を逆さにくるり!とするのを見て、どうしてあんなことが出来るのか?!と、これまた、身体が固まってしまったようになったことも未だにすごくよく覚えている。ほんといま思い返しても、顔が真っ赤になってしまうくらい恥ずかしくて、どこかに逃げ出したくなるような、もっと言えば、物凄く屈辱的?な思い出である。


 これらの「泳げない」「逆上がりが出来ない」は、学童期の私にとって、たいへんなコンプレックスだったのである。周りの皆は、プールの中で楽しそうに泳いだり水遊びをしたりしている、また、周り皆は、いとも軽々と逆上がりをやってのけている!その中で私だけが(いま思えば私だけではなかったかも知れないが、その頃の私には、私だけが出来ない!と思い込んでいたような・・・)出来ないのである!ああ!こんな惨めで恥ずかしいことってあるだろうか!!!と・・・。


 そんな強烈な思いが幼かった私の心の奥に渦巻き、まさしく強烈に、クラスの皆よりも自分は劣っている!!!ということを認識せざるを得なかった・・・汗。←幼かったから、認識するとかしないとか、そういうことはわからなかったと思うけれど、とにかく自分が惨めに思えて、いたたまれなくなっていた、ということは言える。


 では、これが何故、否応もなく〈自分という存在〉を意識せずには居られないような気持ちにさせられるのか?というと、それはやはり「自分は出来ない!」という、何かとてつもない絶望の底に沈んでいくような孤独感←それを、これまた幼い頃気づいていたわけではないけれど・・・周りの皆からひどく遠いところへ引き離されてしまうような、そんな感覚・・・、実際に引き離されてしまうわけではないのだが、そんな気分にさせられ、自分は周りの皆より劣っている!という思いや、なにかわけのわからないような不安に突き落とされる感じに、「自分っていったい何なのだろう?」という気持ちが芽生えたのではないか?と、いま大人になって振り返ってみると、そう思われてならないのである。


 もちろん、自分はこれが得意だ!と思っていることで〈自分〉というものを意識する人も多いと思うし、私にもそんなところがあるとは思うけれども、その頃の私を振り返ってみると、その頃の私が、自分の得意なことを強烈に意識していたという思い出はあまりない。学校の各教科の勉強や図画工作、または音楽など、それらだいたいのことは、とりあえず人並みくらいにはやれていた思い出はある。でも、自分がこれが得意だ!と特に意識したものはあまり無いように思う。←小学低学年の頃は中でも特に・・・。なので、とりあえず色んなことを他の人並みには出来る自分、という思いが自分の中にあり、そういう自分なのでとくに学校へ行くのが嫌だとか思うことはあまりなかったように思うが、だからこそ、プールの水が怖かったり、逆上がりが出来ない自分、というものにぶち当たると、そういう人並みに出来る自分、と思い込んでいる自分が、そうではない、人並みに出来ない自分、というものにぶち当たったような感じで、そのことに物凄く不安を感じたのでは
ないかな?と、今となっては、そう思われるのである。

 だいたいのことは人並みに出来るのに、人並みには出来ないこともある自分・・・。幼い頃の私が、そのことを冷静に受け止めることが出来るはずもなく、ただわけもわからず気持ちが落ち込み、嫌な暗い気分にさせられた・・・。


 こんな感じで、泳げない、逆上がりが出来ない、ということを幼い頃の思い出の例として〈コンプレックス〉について、このようにうだうだと?とりとめもなく書いてきたけれど、ことほどさように〈コンプレックス〉というものはこのように自分に絡みつき、まとわりついてくるようなものでもあり・・・、さらに、この幼い頃の経験のあと、この例だけでなく、さまざまなコンプレックスにぶち当たり、さまざまにのたうちまわり、その中でコンプレックス克服できたものも、その後の人生の中で色々あるけれど、やはり克服できていないものも沢山あり・・・。克服できずにいるものは、やはり今でも否応もなく自分の心に絡みつき、まとわりついてくる・・・。こんな感じで、自分の心の中にしつこく絡みつき、まとわりついてくるものだからこそ、「自分とは何か?」ということに思いを巡らすとき、私には〈コンプレックス〉のことが、すぐに頭に思い浮かんで来てしまうのだ、と、どうやら言えそうだとも思える。


 そんな出来ないとこや、嫌な思い、暗い気持ちにさせられることなどに焦点を当てないで、自分の得意なことや好きなことに関心を向けて、そちらだけを向いて「自分とは何?」と考えたり、また、そのようにして生きて行けば良いのに・・・という考え方や生き方もあるとは思うけれど、また、そうするように努力しようと思ったりもするけれど、やはり〈コンプレックス〉というものは、どこまでも自分にまとわりついてくるようなもので、いわゆるポジティブシンキングしようと試みたり、努力しようとしたりしても、〈コンプ
レックス〉の思いは、知らぬうちに自分の中に湧き出てくるし、拭い去ってしまう、ということは、いまの私にはとても出来そうにないな、とも思われたりする。


 もちろん、自分の得意なことや好きなことの部分で「自分とは何か?」ということを考えることを否定する気持ちはないし、むしろ大事なことだなあ、と思うし、いま、自分のメンタルリハビリの中で、その手法でものごとを考え、色々行動したりもしている。


 それはそれで、これからも、ポジティブシンキング志向で生活していきたいな、と思っているけれど、やはり自分の中に〈コンプレックス〉の思いや感情が、自分の意図や意志とは関係なく、折に触れて湧き出てくることも否定しようがなく、また、幼い頃は〈コンプレックス〉というものに対して、その〈コンプレックス〉ということも何もわからなく、ただ不安な気持ちや暗い気持ちになっていただけのものが、年齢を重ねるにしたがって、その〈コンプレックス〉という心のあり方も、なんとなくわかるようになってきたし、少しは客観的にとらえ、また、客観視するように努力し、こうやって少しでも文章化できるようになってきているとも思う。


 でも、これまでの人生の中でやはり、自分の〈コンプレックス〉との心の中での、それこそまさしく泥くさいような抜き差しならぬ葛藤というものが、自分自身というものの心の中の大半を占めていたと思うし、そして今でもその葛藤はさまざまに続いている、と言えるとも思う。なので、ここまで書いてきて、いま心の中に浮上してきている思いは、「自分とは何か?」ということを考えるとき、それは「自分の〈コンプレックス〉との葛藤そのものが自分だ!」と言えるようにも思えてきた。その意味で、私のこれからの人生も、この「自分の〈コンプレックス〉との葛藤」が続いていくことと思われるし、また、そうであるならば、そういう自分を生き切っていくことによって、他人の抱える〈コンプレックス〉との葛藤にも大いに共感できるような人間になっていきたいと思うし、そういう人生をつくり上げていきたい!と願ってやまない。

神谷 竜一さん_edited_edited.jpg
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