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体験記

過去の自分と今の自分

ペンネーム: テディベア

私がこの病気になったのは33歳です。それまでは社会人で事務員をしてました。

高校卒業後、名古屋に就職をしてました。何事もなく普段の生活していました。

土曜・日曜日は休みだったから、金曜日から夜は栄に友達と遊んだり、お茶したり、食事したり、買物したりとあれだけ大勢の人達の中にいても全然平気だった。

何年もして高山に戻り、事務員と医療事務と税務署に勤めていました。

高山は車通勤で朝は早いです。残業もあまりなかったです。

その後、結婚して数年後離婚しました。当時、若かった私は何も知らず結婚相手が長男だった為、義父、義母、義妹ところに嫁ぎ結婚がこんなに大変なんて想像もしてませんでした。元旦那ともうまくいかず、色々あって離婚しました。

その後、軽いうつになりました。日赤の心療内科に行き、休むよう言われて、自宅療養してました。また、働けるようになりました。でも、不景気もあって、販売の仕事をして休みが平日だったのでハローワークに行き、事務の仕事を探す感じでした。

両親が1週間旅行で家に留守番してた時です。眠れない日が続いてました。体もえらくて家事はやっていました。もう両親が帰ってくる日のことです。突然えらくなり、救急で日赤へ行きました。次の日に検査をすると言われて病院へ行きました。全て検査するけど異常なしと言われて1週間微熱が続きました。療養してたけど、体はえらい日々が続きました。そうこうしていると、ドキドキしてそれも突然でした。その後、過呼吸が出て、時間はその時によって違うけど、長いと1時間位苦しんでいたました。私の病気なんだろうと思うようになりました。

今みたいにスマホがある訳ではなかったので、情報はテレビからでした。

たまたまEテレを見て、長嶋一茂がパニック障害だと症状や色々な事をやっていました。

私と同じだと思いました。精神科はどうしても行きたくなかったから、心療内科診てもらったけど、どんどん悪化する。それで、広報たかやまに心の相談で予約が必要で、私は外出もできないくらい悪い状態だったので、メモに私の症状をノート1枚分くらい書いてお母さんに渡しました。その時に病院の主治医でした。「うちの病院へ連れて来なさい」と言われて車に乗って病院へ受診するのは大変でした。その時に検査結果でカウンセラーもつける事ができないと言われて主治医がパニックの症状を出しきる薬を飲んで過呼吸が長時間続く事が毎日のようにありました。あまりにも過呼吸がひどい時は、当時は入院はできなかったので,注射をして過呼吸が時間がたつと楽になりました。私は、タオルがずっとはなせずいました。日常生活もままならない日々が続き、それから何年かしたらうつになってしまいました。主治医からデイケアに通うように言われて2年間くらい毎日ではないが通っていました。その後、地域活動センターでエアロビクスがあったので、何年間は通ってました。行事も体調のいい時は、例えばバーベキュー大会、日帰り旅行etc

精神的に少し安定したら、B型作業所に週3行けるようになりました。

賃金もその時は良かったと思います。次は、就労移行にいきました。1年間で就職しました。清掃でした。一人で任せられていたのでジョブコーチもつきました。企業から求められる事をこなさなければいけません。パートでした。3年間別の企業でもやってきましたが、とうとう、精神的に疲れてしまい休息入院をしました。しばらくは家で休んでました。

就職はすぐに無理だと思いました。たまたま就労移行が利用できて通所がはじまりました。毎日ではなく週3回午前か午後の通所にしました。精神状態も季節の変わり目は気を付けてました。でも、うつになりました。病気をしてなぜ家族は精神の病気を理解してくれないのだろうとずっと思っていました。就労移行の職員の人と何度も話し合いその場で解決できる事はしてきました。患者は私なのに主治医に何も言えない。だから、ケースワーカーにも何度も主治医を変えてほしいと相談しました。でも、どういう訳かできませんでした。私はうつで苦しいし、でも自ら命を絶つ事はできませんでした。気持ちのやり場がなくなりました。主治医は、お母さん側について困っているのは私なのに任意入院する事なりました。何でもかんでも入院することで解決するとは思えません。私の中で長い入院は1ヶ月です。4人部屋で泣きたくても泣けないし、金銭管理も私自身がやっていました。チャージ式になって、洗濯、売店へ買物すると他の患者がチャージしてある金額がわかってしまうので、私に対して何か買って言う人がいて断りました。作業療法もあって、最初は精神的にえらかったので、とにかく休み、次の時から色塗りをやりました。スマホもない中、アナログで全てやるので、私は必ずスケジュール帳とメモとペンを入院の時は持っていきました。2年前はコロナで入院しました。その時にケースワーカーから、グループホームの話がありました。今は見学も行けない時だったので、患者の中でもグループホームへ行く予定の方が何人かいました。任意入院だったのでケースワーカーから退院できるように主治医に伝えていただき(院内散歩の時)しばらくして退院が決まり、グループホームへ相談支援員と見学に行き、体験で入居したのですが、実家へ帰りました。私の弟が来て「病院に入院するか?それともグループホームに戻るか?」二択の選択しかなかったです。ギリギリの日まで悩みました。弟は本当に私に対してどうしてこんなやり方しかしないんだろうと思いました。高山に暮らしているならわかるけど、他県に住んでいて家庭もあります。私が身体症状がでて、震えがきたり、ひどい時はその場に震えながら倒れるのに、弟とお母さん親戚の叔母さんがたまたま居て「何やってるの?」と笑って見てるだけです。私が苦しんでいるのにひどいです。たまにパニック状態になって、うつ状態がひどい時があって、気分が沈んで何もできなくなりました。結果グループホームに行って1ヶ月はうつ状態がひどくなってしまい、一人部屋で苦しいし、食事もあまり食べられなくなりました。寝れない日々が続いて病院に受診して、寝る前の薬が1錠増えました。

飲み始めて何週間かしたらようやく効いてきました。食事もできるようになり、買物に行く事もできるようになりました。そうこうしているうちに1年経ち、私はグループホームに合ってない事に気がつきました。その後、色々あったけど、一人暮らしをスタートしました。これからは一つ一つですが楽しい人生を送れたらと思っています。

桑 純子さん(アイコン)-light.jpg
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