体験記
僕の、メンタルの「外傷」体験と「死にたいきもち」
ペンネーム: ひるめしひるねこ
1. 通院と薬物療法だけでは「満たされなくなった」僕がいた
僕が病いや障害とともに日々過ごす上で持っている悩みがある。
他人に「つらい」というのが苦手。というより、なぜかできない。
僕にあるメンタルの病気。
幸いにも薬物療法で強い副作用などで苦しむことがあまりなくなり、一見治療が順調のようにもみえる。
ところが。
薬物療法や主治医の指導でも行き届かない脳や心の傷。
これらがむしろ鮮やかに浮かび上がってきていることを日に日に自覚しがちになっていた。
まだ主治医からの正式な結論や診断は出てない。観察期間中なのだろう。
今の自分が医学的にどういう状態に置かれているか、その判断を僕は待っているところだ。
とは言え。
僕自身が今のところ体感している現象や病状はおそらく、
メンタルに大きく受けてしまった「外傷」が大きく影響しているかも?
今の僕にもわかる範囲で、こう説明したい現象や病状だと受けとめている。
2. 僕がメンタルに受けた「外傷」のはなし
子供の頃の僕。
大人たちや目上の人たちが教え導いたり命令したりすることは絶対服従!!
という思考パターンを無理矢理信じてしまっていたような子供だった。
僕自身振り返る機会のないまま、ずっと染み付いたまま大人へとなっていった。
大人たちや目上の人たちにどうしても従えなかった際に受けた
精神的•肉体的な苦痛。
これらが、子供から青年にかけて僕の心と身体が負った数々ある心の傷跡の中、
どうしても心の中の先頭集団を陣取ってしまう。どうしても・・・。
何十年も経て大人と言っていただける年齢になり、今でもなお。
この苦しい気分には時折ふとしたきっかけで襲われることが頻繁に起こる。
とてもしんどい気持ち、どうにも苦しい不安感、一瞬にして砕かれる自己肯定感。
そして、とても深い悲しくなり僕はどうしても心が開けなくなってしまうのだ
3. メンタルに受けた「外傷」に関連する身体的症状
僕の場合・・・
およそ首から背骨伝えに腰まで、首筋のなんとも言えない悪寒とともに
緊張感から筋肉が「絞られるように」とても痛くなることがほぼ毎日ある。
さらに緊張感が激しいときには肩から背中が「斬られた!」と錯覚する痛み。
メンタルが最悪なとき、こういった症状でカラダにも「痛み」が発する。
日常生活の中でも不安や緊張感が強くなりだすと、
神経的とも消化器症状とも表現し難い、強い胸の詰まりを感じることもある。
緊張感あまって起こる、頭痛、肩凝り、急性胃痛など。
僕が一日過ごす中、カラダが「痛くない」という穏やかなひとときは
朝から夜までほぼないと言ってもいいほどかもしれない。
メンタルの「外傷」は思いがけず。
肉体にも多大な負荷をかけ続け、快適な日常生活の質を下げ続ける。
4. 僕が「記憶喪失」だなんて・・・
しっかり思い出せる苦しさがある一方。
最悪に苦しく辛く悲しかったエピソードの記憶の、意外にもたくさん。
僕にあったはずの記憶から不思議なくらいに消えていたいうこともあった。
苦しく悲しいという、大きな心の傷痕だけはくっきりとわかっているのに・・・。
そんな過去が自分にはいくつもできてしまっていたらしい。
近頃、自分なりに気付くようになりだした。
「記憶喪失」と感じられる現象は本当にあるようだ。
自分が死を覚悟するほど窮地となった出来事ほど、
その詳細が自分の記憶から無くなっていく。と、主治医からの説明を聴いた。
このような現象が自分の脳や心に起きているようだ。
5. 「死にたいきもち」ってなんだろう?
「死にたいきもち」
ひるねこが2020年秋から飛騨高山の地域社会へ投げかけてきた、
メンタルヘルスケアのキーワードだ。
このキーワードをテーマに、シンポジウムや座談会が行なわれている。
僕はその準備段階で「死にたいきもち」について、
自分でもよく考えたりひるねこの中でワイガヤと話し合う中に加わったりすることがたびたびあった。
僕にあった「死にたいきもち」って、実はどうだったのだろう?
いのちあるどんなときよりも「生きたい!!」希望にすがりつきたい!!
こんなことを強く感じるときだったかもしれない。
僕にあったこれまでの体験のわずかに残る記憶をたどりつつ、蘇ってきた。
「死にたい」くらい真剣に「生きたい!!」
僕が苦痛で辛く悲しかったとき、きっとこういう死生感だったのだと思う。
これまでの人生の中。
僕に「死」が間近に迫っていた場面は、
僕自身が思っていたよりずっとずっと数多くあったらしい。
病気や障害、不慮の事故での負傷から感じてきただけでなく・・・。
6. メンタルの「外傷」体験と「死にたいきもち」との関わり
僕がメンタルに負った「外傷」体験につながった、数々の場面。
虐待被害、行き過ぎた管理教育、ハラスメント被害、ブラック企業、
マイノリティへの不寛容さ、日本の精神科医療と障害者福祉にある闇・・・。
このような苦痛に満ちた体験の最中、おそらく。
「生きたい」とも「死にたい」とも、とても感じる余裕などなかった。
しかし、メンタルにできた「外傷」体験とその傷痕は。
これらの出来事が過ぎ去った後々にも、深く残り続けるということ。
そして。
これらの深い傷跡が今でも僕の心の中で強い痛みとともに残っていること。
今ようやく、僕の心に起きてきたことを理解し始めている。
7. 崖っぷちで感じた「死にたいきもち」と「逃げたいきもち」
「恐怖心」、「絶望感」、「無力感」、「羞恥心」、「自責」、「他責」、
「怒り」、「悲しみ」、「喪失感」・・・。
このような負のエネルギーをどうにも自分の心の中で整理できなくなっていく。
一方、明るく前向きなエネルギーを受け止めようと努力してみても。
なんだか気持ちの良くない「まぶしさ」や「手に負えなさ」。
「明るさ」などこの世にあるわけがないという「疑い」。
これらの思いから沸き起こる心の「拒絶反応」。
このような思いに見舞われ、逆に自分の心がどんどん苦しくなってしまう。
負のエネルギー・前向きなエネルギー両方に逃げ場なく追い詰められる。
という思いに囚われていく、まさに崖っぷちしか感じなくなっていく自分。
そこには「死にたい」とも「生きたい」というきもちよりも。
「逃げたいきもち」のほうがどんどんあり余っていくことだってありうる。
こんな心の動きが偶発的、かつ、激しく、
自分自身の心に湧き起こってしまうかもしれない。
これに身を委ね行動してしまうと本当に「死ぬかもしれない」。
8. 死ぬかもしれない「衝動」から救われて
「逃げたいきもち」は「衝動」という。
自分にはとても抑えの効かないなきもちへと大きく膨らんでしまうこともある。
人はこんな心の動きからでも「死」へと突き進むことだってある。
おそらく誰にも予測も抵抗もできない、とても激しい心の動きがあると思う。
メンタルの「外傷」体験からはじまる「死にたいきもち」。
僕には「衝動」という変わった体験もあった。
誠に幸いなのは。様々な偶然に救われた末、僕は「死ななかった」。
人は崖っぷちから生還すると、
自分や周りの人々の「いのち」にリスペクトを感じだすという話をときに聴く。
今になり、僕もこのような境地に共感を覚えることが多くなりつつある。
9. 悩みや苦しみを「言語化」してみたら・・・
「言語化」という体験を知り、最近試みることが増えてきた。
自分のメンタルヘルスの「できていない」ことや、
これまでずっと悩んでいたり苦しんできたことなど・・・。
日頃のひるねこでの活動の中や主治医の先生の診察を受ける際などに、
思い切って自分の言葉で話してみることを試みてきた。
あえて行う「言語化」に、思いがけず向き合う躊躇や葛藤はたくさんある。
まず、僕が持つ怖く悲しい過去を直視することをが迫られる。
「こんなこと話して相手にどう思われるかな」
「嫌われちゃうんじゃないかな」
このような思いに駆られてしまうことからは、どうしても逃げられない。
10. 「もうひとつの自分」の誕生に立ち会っている、僕。
ところが。
僕の「言語化」にそっと耳を傾けてくれた方々が思ったより多くいてくださった。
心から安堵と感謝の思いを感じ、僕は満ち溢れる喜びをいただくことができた。
僕の「言語化」はきっと。
話した相手から一方的な「回答」や「アドバイス」が欲しい気持ち。
という気持ちから起きているわけではないらしい。
このようなことにも気付いた。
「ただ耳を傾けて下さった」相手の方々の寛容な向き合い様を見て、
僕の何かが動き始めていく。
前向きに問題解決してみたくなる心へと向かい始めていくようで・・・。
この自然に沸き起こりはじめた変化を見つつ。
「もうひとつの自分」の誕生に自分自身が立ち会っている。
今までになかった僕の姿を新鮮に感じている。
「僕、捨てたものじゃなかったんだ」という自信のようなものが芽吹き始めてきたようだ。
僕の病気や障害への向き合いかたの、新しい世界が始まった。